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昔の事・今の事

基本noteと言うサイトや、他にキマグレに作ったブログからの転送で、加筆・訂正ありです。https://note.mu/zhou

「さよなら李香蘭」の事②(1989)

 

 この番組はフジテレビの開局30周年の番組なので、次々と豪華なキャスティングが決まっていくのが楽しかった。

 結果的には日本と中国の俳優さんでまとまったが、ハリウッドスターの名前もあがっていた。

 クランクインの日が決まり、やるだけの事はやった。予防注射も打った、この年の初めにチャン・イーモウ監督の「紅いコーリャン」が封切られており、日本軍が出てくる映画に、中国で日本軍の衣裳や武器などが手に入るという安心感も得ていた。

 制作部はコンテナ2個分の食糧を船便で発送した、カップラーメン、レトルトカレー、なじんだお菓子類・・・その時のリストがあるが、異常である、しかし、すごく助かったのも事実。

 

{さよなら李香蘭・ロケノート}と言う冊子を作った、内容は、こういった中国持ち込み食品リスト、宿泊地まわりの地図、簡単な中国語辞典、などなど・・・

 写真は沢口さんの横でカップ麺を食べる藤田監督。

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いよいよ撮影だ。4月11日に北京に出発、4月14日がクランクイン、 50日あまりの中国ロケがスタートした・・・が。

問題は山積みだった。

 この部分の記憶を探っていくと、あまり良い思い出がない。例えば車のナンバープレート、1930年代、中国で、どんな車が走っていて、ナンバープレートはどうだったか・・・、日本では調べられなかった、その件を打診すると、中国スタッフからの連絡は、「車はあるし、ナンバープレートも大丈夫」という事だった、今なら、メールに添付して写真なりで確認出来るだろうが、1988年はそんな時代じゃなかった。

 現場に行くと、車の色は場面にそぐわないし、ナンバープレートは、板にペンキでナンバーを書いただけの物・・・なんて事が、いくつかあった。

この手書きのナンバープレートには、ちょっといい加減過ぎると、かなり怒ったのだが、街を見渡すと、手書きのナンバープレートの車が、この時代も何台か走っていたりして、愕然とした記憶が・・・

 兎も角、この事件以来、僕と美術班は、毎日現場に先乗りして、色々な美術的なものの確認に追われる事になった、(中国側のシステムでは事前に見せてもらう、とか、当たり前の事が、なぜか、まったく出来なかったのだ)

 まあ、ホテルでキレイな朝食を食べているオールスタッフ・キャストと違って、中国側のスタッフ用の弁当を毎日食べられたのは、結果的に貴重な経験だったと思う。

 また、小道具を探しに、北京撮影所の小道具倉庫に入れたりしたのも、いい経験だった、そこは日本にもありそうだが、日本にはない、すごく不思議な空間だった。

撮影前に沢口さんが歌う李香蘭の歌も録音した。

 

日本出発から、帰国までの予定表を載せておこう。

 問題は抱えながらも、撮影は進んでいく、しかし、問題が発生した。

これは結果的に本当に大問題につながって行くのだが、それはもちろん、誰のせいでもない。

 クランクインして1週間ぐらいして、主演の沢口さんが体調を崩してしまった、沢口さん直筆のスタッフへの手紙がある。

 

ちょうど天橋劇場という劇場に1000人のエキストラを入れて、日劇での李香蘭リサイタルのシーンを撮影する日だった、沢口さんが体調を崩して現場に来ない事が伝えられた。

 このあたりの事は、プロデューサーである中山和記さんの著書「ワイルドサイド」に詳しいが、沢口さんは急性肋膜炎、という事だった。

 これは、どうしょうも無い事だが、撮影現場には1000人のエキストラが来ている、すなわち、お金がかかっているのだ、なにも撮影せずに帰らせるのはもったいない。

 そこで、監督が沢口さんの吹き替えを探して、後姿を撮ると言い出した、1000人の観客を前に歌う李香蘭の後姿という画だ。

 中国側の監督が1000人のエキストラの中から、沢口さんと体型の似ている娘を探し出し、出演交渉をしてOKが貰えたようだ。

 問題は振り付け。準備期間中、僕ともう一人の助監督が、沢口さんの振り付けのレッスンに同行していた、同行していただけであって、一緒にレッスンを受けていた訳ではないが、なんとか、歌い終わりのポーズを思い出す、まあ、たとえ違っていても、沢口さんに合わせて貰えるだろう・・・。

沢口さんの後ろ姿で、歌い終わると、{客席の観客が割れんばかりの拍手を送る}という撮影だけをした。

 で、中国で入院してしまった沢口さんは、一度日本に帰る事になった、めど、としては1週間、スタッフは北京で待機となった。

 本来のスケジュールでは5月29日に中国ロケは終了して31日には全員帰国の予定であったが、ここで1週間延びると、ロケ終了は6月7日だ・・・。

 しかし、天安門事件と呼ばれる日は6月4日。

 本来なら、すべて撮り終って帰国していたはずが、天安門事件によって、撮り終らないまま帰国する事になってしまった。

 もちろん、この時点は5月22日で{天安門事件}など想像もしていない。沢口さん待ちの我々スタッフは、北京で、中国側のスタッフの計らいで、のんきに万里の長城見学とかしたり、僕は自由時間に北京動物園にパンダを見に言ったりしていた。

バブルな時代だ、1週間、高級ホテルで食べ放題・・・

 そして、約束どうり、沢口さんは元気になって戻ってきた、遊びも嫌いじゃないが、我々スタッフは撮影現場のほうが何倍も好きなのだ。

 スケジュールはグチャグチャになっていたが、撮影は順調に進んでいった。

 書き始めると、次々と記憶が甦る、北京では「ラストエンペラー」の時、ベルトリッチが置いていったと言う、立派なクレーンを使ったし、

 上海の、ある体育館前ではスピルバーグが「太陽の帝国」のリハーサルを毎日やっていた、なんて話も聞いた。

 中国側スタッフとの関係は、おおむね良好だったと思う、考え方、やり方も違うので、ぶつかる事は当たり前だったが、どうにもならない事はどうにもならない・・・という中国側スタッフに対して、どうにもならない事でも、なんとかしなくては、と考える日本スタッフは、そうとう嫌な奴だったと思う。

 撮影スケジュールはかなり変わって、5月の終りに、スタッフは上海にいた、長春、開封と、地方都市を廻ってきたあとで、上海は久々の都会であったし、ここではクライマックスの撮影が待っていたが、街の異変にはスタッフも気づいていた、やたらとデモが多いのである、なんのデモかは分からないが、何枚か写真を撮った。

 ホテルの部屋から撮影。人の列はデモ行進の人々、奥に見える体育館前でスピルバーグが「太陽の帝国」のリハーサルをしていたそうだ。

 制作部の動きがあわただしくなっていた、中国側から、撮影の中断が言い渡されたようだった、なんだか分からないが、北京はすごい事になっていて、大連から船で日本に帰るかも、という情報が流れた。

ニュースはまったく入って来なかったので、中国国内の状況はよく判っていなかったが、北京から帰れる事になり、スタッフは北京に向った。

北京で1泊、する事もなく、外出禁止でも無かったので、台湾人のスタッフと天安門広場まで遊びに行ったりしていた。

天安門広場の毛沢東の画にペンキがかけられていたのを、見たというスタッフもいた。

 今考えると恐ろしいが、この時はまた、民主化運動という事さえ知らなかったし、知らないまま帰国した。

パスポートを確認すると帰国日は5月31日だった。

 中国ロケは終了しないままだったが、作品そのものを中断したり、制作中止にするという話にはならなかった。

 まだまだ日本での撮影は手付かずだ。体勢を整え、国内ロケが始まった。

撮影はまだまだ終らないのだ。

                            つづく